後編
SIDE 悠里

 今日はいい1日だったなぁ。
 私は上機嫌で家の扉を開けた。
 虹は見れたし、いい天気だったし、
 やっぱ「虹にお願い」が効いたのかな?
 今日風邪ひいちゃって、帰りのHRと掃除に参加できなくなっちゃった子も、  朝、願い事としてこればよかったのに
 …風邪ひいちゃうなんてかわいそう。


 そこまで考えて、私は脱いだ靴をそろえようとしていた手を止めた。

 何か感じる、違和感。


 さほど広くない玄関には、私の革靴――学校指定のものだ。
 はきにくいから、あまり好きじゃないんだけど。
 それに、勇太のスニーカー、母さんのヒールのついた靴、父さんの革靴。
 あ、父さんもう帰ってるんだ。
 珍しい、まだ7時前なのに。


 違和感の正体を知ってなんとなく、ほっとした。
 私が感じたそれは、もっと…ま、いいや。

「ただいま。父さん、早かったんだね…」
 リビングのドアを開けながら、中にいるであろう母さんに、そう声を掛け、



 パタ…ン



 鞄が手から滑り落ちた音がやけに遠くで聞こえた。
 すべての音がフィルター越しのように不鮮明に聞こえた。
 光景は荒い映像のようにぼやけている。
 涙で視界が滲んだのだと、気付いたのはずっと後だった。


 父さんと母さんと勇太。

 ソファの前に集って。

 ―――悠香。ソファに横たわっている。
 偶然私と同じ日に生まれた、私の、ネコ。
 私と同じ、茶色がかった瞳の。
 私の半身。


 誰よりも理解していた――双子より近しい存在。



 動かない。



 ほとんど直感で、そう知った。
 柔らかかった白い毛は、彫刻のように固くなっているように見えた。

「なんで…?」

 無意識のうちに、誰に問うでもなく口から飛びでた言葉。

「もう、15歳…人間でいえば、かなりの高齢だったんだ」
「大往生っていうんだって。苦しくなんかなかった、って…」
「子猫の時に、去勢手術をしたから…性格はずっと子供みたいだったわね…」

 望んでもない答は父さんたちが与えてくれた。


 白くなるくらい握り締めた手も無理やり解いて、硬直した足を叱咤して動かして。
 触れた悠香は、やっぱり冷たかった。
 でも氷のようなそれではなくて。そんな無機質めいたものとは絶対に違っていて。

 ――――生きていた、と思った。
 いまさら。




 ――――――しあ・・せ、に。に・・に、ねが・・・から―――――




 不意に、そう聞こえた。
 気のせいかもしれない、けど。

「生きてたんだね」

 言葉は自然と、けれど今度は、はっきり意識して紡がれた。
「そうだね」
 父さんが優しく言った。
「私も、生きてるよね?」
 変なことを言っていると、重々承知の上で。
「そうよ」
 母さんが私の肩に手を置いた。
「分かるよね?」
 あるいは、自分に向けていった言葉。
「もちろんさ」
 勇太が力強く言ったから、少し安心した。




 私は少し乱暴に涙を拭った。

 悠香がそう願うなら、幸せになろう。
 それは多分、生きとし生けるものが必ず願うものだから。
 残された者が負うべき、義務だから。

 この地球ができてから、うんざりするほど繰り返される生と死。
 廻ってばかりで、どこにも到達できないそれを、
 私たちは知っていかなきゃならないのだろう。
 ―――いつか来る「死」を迎えるために。


 私たちは虹に願いを掛けた。
 それはきっとかなう。少なくとも、私は信じる。
 悠香も…きっと信じてる、信じてた。
 自由奔放で、他力本願が大嫌いな彼女だった。
 一緒に育った私が一番、知っている。
 それでもなお、そう確信を持った。
 一緒に育った私が思うんだら、間違いない。


 悠香は信じて―――逝った。




 それから、また少しだけ泣いた。
 もう還らない温もりを想って。



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