□よるのさんぽ□


 イヤホンからひどく寂しげな歌が聞こえる。


 習慣となって久しい、夜の散歩。彼女がその道を選んだのは、言ってしまえば気が向いたから。
 敢えて理由を付けるならば、最近あまり良くない体調を慮ったとでもなるのだろうか。 遠出するには少々不安でも、家の近所をぐるぐると歩くのならば、帰ろうと思えばすぐに帰れる。
 …もっとも、そこまで深く考えた訳ではなさそうだ。
 ただ、何となく。
 もともと、彼女の散歩には確たるルートなど存在した試しがない。足の向くまま、気の向くまま。
 気分が乗ればどこまででも。


 そんな彼女であったから、こういう道を歩くことになったのも必然であったのかもしれない。


 ――家から幾らも離れていないにも関わらず……そこは、初めて通る道であった。
 左右両方向に聳え立つ、壁。
 どこか歩きなれない感触の硬いアスファルトとそこに黒々と横たわっている闇夜。
 ずっと前方に佇む自動販売機。そこだけが機械的な光に照らされて浮かび上がっている。
 どこか知らない場所に迷い込んだように、何かの隔たりがのしかかって来る、そんな通り。


 短く余韻を残して、曲が終わった。
 程なく、設定された次の曲が流れ出す。
 打って変わって軽快なテンポのポップ。リズムに押されるように歩調が少し早まった。


 忘れかけられていたのか、妙に古ぼけた模造品の缶が並ぶ自動販売機の前を通り過ぎる。
 突き当たった道を見て、彼女は足を止めた。微かに迷ったように立ち止まり、すいと右を向く。  かわりばえしない、家々の隙間を縫う通りが横たわっている。 僅かの後、とん、と音を立てて彼女はそこへと足を運んだ。




 例えば。
 街頭一つない暗い道は彼女にとってさほどに珍くはない。
 警戒と感情の底にへばりつく恐れはなくならないものの、10年以上を暮らす彼女の住まいのそばに、 それは満ち溢れているからだ。
 彼女はこの辺りの地名を知っている。小学校の同級生がこの近辺に住んでいるはずだと理解している。
 右手にある家の、何十メートルか向こうには彼女が朝夕に自家用車で走る大通りがある。
 彼女の家は北にあるし、ずっと東に足を向ければやはり朝晩見ている大きな神社があるはずだ。
 頭上を斜めに横切る電線は遠目にも目立つ、あの大きな電柱からのびているのだと想像できる。
 そしてこの辺りは、彼女の住まい(あるいは彼女の世界の中心)から徒歩で15分もかからないところなのだ。

 それでも。
 よく見知った場所に隣接する、そこは異界のようだった。

 あの角の先には何かがいるかもしれない。
 木の陰に佇んでいるのかもしれない。
 薄闇の中に息を潜めているのかもしれない。
 ぴたりと背後に寄り添っているのかもしれない。
 ……この瞬間にも。
 そんな想像が実際に起こってもおかしくはないと感じる、感じてしまう。
 もっとも原始的な感情――恐怖、が心の底でぐらりと動いた。

 耳に流れ込んでくる、見ず知らずの他人が生み出す音に足音を乗せて彼女は歩いた。歩調は競歩ほどに早まっていた。

 自宅から徒歩15分の世界と、名前と歌以外の何も知らぬ(彼女には顔すら判別ない)ミュージシャンが作り出す世界と。
 どちらがより自分に近しいのだろう、と詮無いことを思った。