春爛漫。
そんな言葉を象徴するように咲き誇る、桜。
夏季のそれとは違う、少しばかりぼやけた色の青空の下、
育ちすぎた入道雲のような花の塊が風に揺れる。
時刻は昼。天気は上々、気温は最適、風は緩く温かい。
次は必須、それも第1回目の講義。必要な教材とか、教授の人となり(どれくらい甘いか)とか、
評価基準(それによってどれだけ自主休講するか決める)とか…色々とチェックする点はあるのだが。
これだけの好条件、食事後の心地よい満腹感、それに朝から感じていた慣れない緊張で疲れ気味の体と精神状況。
これで、まじめに講義を受けろ、という方が無理な相談だ。机についたところで5分もしない内に船を漕ぎ出し、
10分後には突っ伏していること請け合い。それじゃ自分の身にならないばかりか、
講義に駆り出されている教授も気の毒な訳で…。
理屈とも言えない屁理屈を心の中でこね回し、彼――
『件名:わりぃ。
本文:オレ、次フケる。4限は出る(予定)。
代返よろしく。
じゃあ。』
素早く用件だけを打ち込んで送信。ちなみに、彼が外にいるのは眠気覚ましのガムを買うためだったのだが、
都合の良い頭はその辺りをすっかり忘れている。
返事は即座に来た。
『件名:Reわりぃ。
本文:入学式翌日にして早くもサボりかよ。ってかなんだ「予定」って。
ま、いーや。代返はやっといてやるよ。感謝して敬え(笑)
敬ったらオレがサボる時には心して代返するように。
次は来いよ。』
『件名:Reわりぃ。
本文:さんきゅー。任せろ。気が向いたらやってやる。
んじゃ4限目に。……多分行く。』
気の良い友人に軽く感謝。再び携帯をポケットにしまうと、賢杜はキョロキョロと辺りを探った。
大学生にもなって授業時間中に出歩いていたからといって注意されることは考えにくいが、
この好天気に誘われて外で昼食を採る者や、どこから持ち出したのかボールを使ってドッチボールに興じている者、
芝生に座りこんで読書に勤しむ者など、中庭には結構な数の人が居る。
せっかく昼寝をしようというのに、そんなやつらに邪魔されるのはゴメンだし、
万が一踏まれでもしたら目も当てられない。
かと言って図書館はインクと古い紙のにおいが鼻につく。
特に部活やクラブに属している訳でもないので、自由に使えるような部屋もない。
空き教室の机に突っ伏すのはちょっと遠慮したいところだ。
どこか邪魔が入らなくて、暖かくて、できれば静かなところ…。
入学2日目の身としては、そうそう良いポイントなど知らない。
そろそろ本格的に閉じそうになっている眼をこすりながら、賢杜はふらふらと歩いた。
「…お」
人の居ないところ、居ないところと歩いていったせいか、気付けば彼が立っていたのは裏庭。
横に立っている経済学部塔のせいでほとんど日が当たらず、やや肌寒い。
足元の下草も日なたとは違う種類のようだ。どう見ても午睡に向いているようには思えない。
けれど、その一角が賢杜の目をひいた。
大学全体を囲むフェンス、その脇に植えられた桜の巨木。
大の大人が3人手を繋いでも到底周囲を覆えないほどの太さを持つ幹。大きく広げられた枝。
つい先ほど見た、中庭のそれが若々しい力に溢れた春の花ならば、これは憂いを帯びた晩春の花。
なにゆえにこんな日陰に桜が植えられたのか…理解に苦しむところだが、
その木はかなり老木のようだ。建物の方が後に立ったのかもしれない。
経済学部は設立されて5年ほどの新しい学部だから、その可能性は大いにあるだろう。
とにかく、その桜の上半分――ちょうど花が盛りと咲いている辺りから上は、
斜めにかかる影が切れて良い具合に日が当たっているように見えた。
風も建物に遮られて裏庭まで入り込んでは来ない。
地面に横たわるには少々不都合な場所だが、木の上ならどうだろう…。
いい加減眠気もピークにさしかかっていた賢杜には、
そのアイデアがなんだかやけに良いものに思えた。
てくてく。
近づいてみれば、桜の木は尚更大きく、立派だった。
手を伸ばしても身長170センチそこそこの賢杜では一番低い枝にさえ手が届かない。
けれど都合の良いことに高さ1メートルほどの脇にはフェンスがある。
はげかかった緑色のそれは、少しばかり古びているが、
彼の体重を支えるに不足はなさそうだった。
体重を受けてぎし、となる網に注意を払わず、賢杜はさっさとフェンスの上に立つ。
登りきってみれば、肩の高さにちょうど良さそうな枝。
ぽんぽん、と軽く叩いて枝に乗り移ろうとした、ちょうどその時。
「…え?」
明らかに自分のものではないその声に、賢杜は動きを止めた。
「「あ」」
今度はちょうど重なった2種類の声。
賢杜が見上げたそこ――彼が乗り移ろうとした枝の、少しだけ上――に居たのは、
学生と思しき女の子。
…『女の子』という表現は彼女の年齢を鑑みれば奇妙かもしれないが、
彼女の雰囲気は彼のクラスメイトたちよりもずいぶん幼いものだった。
肩口で切りそろえられた黒髪、長い前髪からのぞく不安定に揺れる瞳。
手に持つ、分厚いガードカバーの書籍。
「…あんたダレ?」
この後に及んで眠気に邪魔された思考が吐き出したのはかなり不機嫌そうな問いかけで、
まずい、と思った時には遅かった。
思い切り萎縮してしまったらしい相手は、落ち着きなさ気に本を胸に抱え、彼から目をそらした。
「あの。わ、私…」
ぎゅう、と力をこめた両腕と肩が小さく震えるのが見て取れた。
「っ、危ない!」
「きゃぁっ!」
バランスを崩したその『女の子』に伸ばした手。
掴まえたものが何かを気にする余裕もなく、それを思い切り引き寄せた。
ふ、と香る煙のにおい。
悲鳴。
背中の衝撃。
――暗転。
「…ッ、てぇ」
背中から脳髄へ抜ける痛みに、腹に加えられた衝撃に、息の塊と共に呻き声が搾り出された。
一瞬の激痛をかたく目を閉じてどうにかやり過ごした後も、身体を鈍痛が駆け巡っていく。
ずきずき…。しつこく残る頭痛に眉を寄せたまま、賢杜は薄く目を開けた。
薄暗く霞む視界の向こう側に、黒髪に半分隠れた、それでも心配そうに歪む顔が見えた。
「………大丈夫か?」
掠れた声でようやくそれだけ賢杜が言うと、彼女はその言葉でようやく我を取り戻したようだった。
彼の腹に乗っかったまま、という状況をようやく認識し、慌てて身を起こす。
胸元に未だあるハードカバーは落下前に彼女が手にしていたもので、
あの衝撃でも手放さなかったのか…と賢杜は妙な感心をした。
突然、ふい、と目を逸らされた。その行為に賢杜はひどく焦燥を覚える。
その理由が自分にも分からず、さらにつのる焦り。
そして次の瞬間、止める間こそあれ、彼女は走り出していた。
身を翻した彼女が動かした風に、覚えのある煙のにおいが再び混じる。
「なん、だったんだ…?」
無意識に詰めていた息を吐き、自問するように賢杜はそう口にした。
身体を起こそうとする試みは結局うまくいかず、
彼は半ば這うように軋む身体を桜の老木の下まで持って行き、転がった。
下草はどことなく湿気ていて冷たく、痛みを和らげてくれた。
ついさっきと寸分変わらずそこに在る桜の花を見上げてみる。
どうして、あんなところにいたのだろう。
頭をかすめる疑問。
桜。手にした本。老木。揺れる瞳。
はっきりしないピンク色の雲に似た花。震える肩。
ざらついた感触を手の平に残す幹。ほとんど言葉を紡がない唇。
――どうしてあんなところで。
あまりにそればかりを考えていたから、頭痛がするほどだった。
だから、彼女が座っていた枝のすぐ近くに伸びていた枝に忘れられた、
彼女のものと思しきバックから、
雑多な大量の本とどう考えても彼女にそぐわないタバコや携帯用灰皿が見つかった時は、
どことなく安心した。あぁ、と得心した。
半分ほどが消費されたタバコの箱を弄ぶ。現金なもので、頭痛は消え去っていた。
空は晴れていて、風は建物に遮られて吹き込めず、
日陰は少々肌寒いけれど日なたは過ごしやすい暖かさだった。
明日もこんな天気だったら、と賢杜は思う。
翌日。彼の思いが通じたのか、はじめからそうなる予定だったのか。ともかく天気は上々だった。
2つのバックを背負った賢杜に「3限サボるから」と告げられて、件の友人はとりあえず驚いたが特には止めなかった。
あまりに嬉々とした彼の様子に、止められなかった…というのがその実態だったのだが。
裏庭は相変わらず肌寒く、異質な感じに桜が鎮座していた。
その桜を見上げている、見覚えのある人影。黒い髪の『女の子』。
賢杜は少し笑って、なんのてらいもなく、軽く声をかける。
「『ハプスブルク帝国史の光と影』、『家庭でできる漢方処方』、『ポケット六法全書』」
物音におびえる子猫のような過剰な反応を示される。けれど構わずに彼は続けた。
「『真夏の世の夢』、『図書館の幽霊』。
…あと、そうそう推理小説が3冊とファンタジーライトノベルが5冊。
昨日持ってたのは『三国志』だっけ?」
それにタバコと灰皿、と付け加える間に彼女に近寄っていく。
逃げたいのに足が強張って動けない、そんな恐怖に彩られた瞳を覗き込んで、問うた。
その瞳がもう一度見たかったのだと、賢杜はひそかに思った。
「それで?ここで本読んで、タバコ吸って。そんでどうする?」
人と居るのが苦痛で、だから人の居るところには居られなくて。
1人で居るのが孤独で、だから静か過ぎるところには居られなくて。
なにも考えたくなくて、けれど頭を空にすることはできない。
言葉を発しようとしない唇からもれるのは二酸化炭素ばかりで、色のにおいもないそれに我慢ができなくて。
人気のない裏庭。
生命力に溢れる桜の花。
空虚の代わりに文字で脳内を埋める。
紫煙をひたすらに吐き出す。
それが彼女の妥協案。
「そんでどうする?」
その問いに唇を噛んで彼女は立ち尽くす。なにを変えたいと、そう思ったわけでもない。
だからどうしたいか、なんて自分でも分からなかった。
「だからさ…。」
なに一つ言おうとしないことを気にも留めず、賢杜は続ける。
「そんな非生産的なこと止めて、オレにしない?」
「……は?」
それはそれは予想外なことを、あっさりと言い放った賢杜に返ってきたのは、
返事ともいえない間の抜けた声だけだった。
「あっ、そー言えばさ。あんた、名前は?」
「あの…」
「な・ま・え!ちなみにオレは藤原 賢杜ね」
「
「明日奈。オレがいるからさ。」
人と居るのが苦痛なら、無視してくれれば良い。
1人で居るのが孤独なら、近づいて構わない。
考えることが欲しいなら、ネタを提供することくらいできる。
口寂しいなら、好きなだけ話し相手になれる。
だから裏庭も、桜も、雑多な本たちも、タバコも必要ない。
おびえた瞳をしなくていい、隠す必要は尚更にない。
「な?オレにしろよ。」
はじめはひどく怖いと思えた賢杜の態度は、実は必死な人のそれだと気付き、
明日奈は少し微笑んだ。
それから、少し迷って口を開いた。
子供のような様子を見せる目の前の青年に、