弾ける音と暗闇。
鼓動が跳ね、背を緊張が駆け抜ける。
けれど、その正体はすぐに分かった。古くなった蛍光灯が瞬いた、それだけ。
っ、……びっくり、した……。
何よ、もう。
収まりかけの胸を押さえ、口の中で小さく小さく悪態を吐く。
――人騒がせなんだから。
だいたい、私は怖いのは嫌いなのだ。何が楽しくてホラー映画なんか見たがるのか私には全く以って、さっぱり、全然、
分からない。お化け屋敷も以下同文。
いよいよ寿命が近いのか、点滅を繰り返す電灯。じぃ、と 低い唸りが耳に届く。
いつまでも、こんな階段のど真ん中で立ち止まっている訳にはいかない。
不気味な光に追い出されるように、私は膝を持ち上げた。
…………
きゅ、と上履きと廊下の擦れる音が聞こえる。
私は段の数を数えている。十までなった時、上の方から人の声がした。少し高めの、女の子の声。聞いたことのない声だ。
踊り場で向きを変えて、見上げた先には二人組み。片方はセミロング、片方はショート。
前髪の陰に入ってしまっている顔は、はっきりと見えない。けれど見覚えのない顔に思える。
ささやきのようなおしゃべりに夢中になっているのか、彼女たちが私に気付く様子はない。
このまま行くとぶつかってしまう。
ちらっと見えた名札の色が先輩のものだったこともあって、私は反対側の壁に移動した。
運動部所属の私は、一応、先輩後輩を気にするのだ。
「………一年の子が…………聞いたこ……る?」
「知っ……。……………たんでしょ?」
とんとん、という足音に僅かに被る話し声。
会話を聞いてしまうことが微妙に気まずい。壁ぎりぎりの所を歩く。
それにしても何と言うか…存在感のない二人組みだ。こんなに傍にいるのに、声も足音も聞こえているのに。
向こう側の壁が透けて見えそうと言うか。
幽霊とか言われると納得しそう。――いやいや、だから怖いのは嫌いなんだって。
「…うん。何か………が入り………、襲われ…………よ」
「えー、……………」
「 」
それは、ちょうど同じ段に足を乗せた瞬間だった。
空気に掻き消えて、ほとんど音と変わらなかった声が明確な意味を成した。
耳に届き 脳を、そして 膝を震わすほどに、
……――怖い。
『コ・ロ・サ・レ・タ』
怖い、よ。
足音が遠ざかる。
踊り場を曲がる。気配が薄れる。
もう、何も聞こえない。
大丈夫。
私は思う。
――大丈夫。何も、ない。怖くない。だって私は、
止まりかけていた足を動かす。錆付いたみたいにぎこちない。踊り場に出る。左足を軸に、進行方向を変える。長い階段。
壁に設置されている手すりを掴む。それが生暖かくなるまで待って、また膝を持ち上げた。
きゅ………きゅ……
ゆっくりと、身体を移動させていく。
なるべく何も考えないように、ただ足元だけを見る。
つま先に臙脂色のゴムの張り付いた上履きが、ただ機械的に上下するのを。
だって。
見ちゃ、ダメ。
背後を振り返っては、私の影を覆いこむような巨大な翳に気付いては、その息遣いを聞いては、その視線を感じては、
その足音を想像しては……
バチ
っっ!!
先程の比ではない、爆発音。比喩でなく、目の前が真っ暗になった。
喉に悲鳴が絡まった。
明転。
そうして、わたしは見てしまった。
再び明るさが戻った廊下。生白い表面には私の影は浮かんでいない。倍以上も大きな暗がりがすっぽりと私を包んでいる。
厳つい肩、大きな身体、ゆぅらりと揺れる 首。
凍りつく。ごくり、と聞こえたのは私の、それともその影の 喉を鳴らす音?
「………誰、ですか?」
長く伸びる影の縁を視線でなぞり、そして問う。お願いだから答えて。体育の先生だとか、ただの男子生徒だとか。
異常に怖がる私をからかっているだけだと、そう言って。
無言の返答。そうして、一定のリズムで揺れていた頭が、右に傾いた角度で ふと 止まった。
何か(嫌な予感だとかそう言われそうな戦慄)が身体を震わせる。
にんまりと、大きく口角の上がった口が見えた気がした。(そんな訳 ないのに!)
突然、本当に唐突に、私の両足は思っても見なかった反応をした。
つまり――上に向かって伸びる段を駆け上る、そんな反応を。
踊り場まで駆け上り、そこで慣性に引かれて流れる身体を無理に捻じ曲げ、更に走る。
次の踊り場まで2段飛びで走り、手摺を掴んで強引に曲がる。
更に次の踊り場へ向かう。
影はぴたりと着いてくる。私の心臓は急な運動と恐怖で締め付けられるように痛む。息は乱れ、額に冷たい汗が浮かぶ。
影は寸分の違いなく私を包んでいる。
喉に空気の塊が上る。それは、今や私の肺腑にとって貴重品となった酸素の塊で、押し上げているのは増殖する恐怖で。
愚かだと分かっていながら私は喉を裂くように声をあげる。
悲鳴を上げながら、酸素不足で覚束ない身体が足を踏み外すのを自覚する。
床が視野一杯に広がっていき、衝撃に骨が軋んだ。
いやだ、いや、お願いイヤ………
蛍光灯の点滅に従い消えたり現れたりする影に請うて、倒れ伏せたままの背中に先程とは違う衝撃が――――
……………
ぬめるような白さは死人の肌に似ている。
うっかりとそんな感想を持ってしまった。
ただの階段。どこにでもある学校の。それが巨大な死体の表面に思える。足元がずぶりと沈むのではないだろうか。
ぶるぶると首を振ってそんな妄想を追い出す。ここは学校なんだから。白さはありきたりのリノウム材の色。
どこか気味悪く見えるのは黄ばんだ光を落とす蛍光灯のせい。そう、おかしな所なんてない。
何の変哲もない、これは日常の光景。
どことなく落ち着かない息を飲み込み、
足を進める。
踊り場で向きを変え、
現れた長い方の階段に私は溜息を吐いた。
「ここで一年の子が死んだって聞いたことある?」
「知ってる。授業中だったんでしょ?」
「…うん。何か不審者が入り込んで、襲われたらしいよ」
「えー、それって…」
「殺されたの」
「………」
「それから出るんだって、ここ」
指差された、整然と並ぶ階段。