――それは、魔法。
現実にある…あるいは想像しうる全ての音と、取り取りの光と、色。
それらを詰め込まれた、人工物。
「――危ないっ!」
え、と思った。その時には遅かった。
あたしは
その背を押された。どん、と衝撃に襲われてあたしの身体が飛ぶ。
遅れて耳を劈くような音ががなりたち、白いライトが通り過ぎた。
大きすぎて何の音だか瞬時に判らなかったそれは、一瞬で掻き消えた。
辺りは薄青く、途切れることのない雨音が続く。
あたしの手から離れた傘が転がるのが見えた。
けれど、あたしは打ちつけた掌と膝が痛くて立ち上がることもできない。
しばらく経って頭がクリアになり――ようやく、さっきの音と光の正体にまで思考が及んだ。
ゴム製のタイヤが、硬いアスファルトを擦りつける音、ヘッドライトの光。
…それの示す事実に、今更ながらに身体が震える。
――。そう、そうだ。悠矢は?
あたしはようやく思い出して、幼馴染だった彼を探した。
『だった』――過去形になってしまったのは、彼があたしたちの関係を変える、
決定的な言葉を吐いたせい。…少なくとも、あたしにはあまり歓迎できないそれを。
邪魔な髪を背に流した。少しだけ明るくなった視界の中で、
あたしははいつくばったままに悠矢を探す。
膝が痛い。ジーンズの上からでは確認できないけど、きっと立派な痣ができているだろう。
悠矢は――居た。あたしから2mと離れていなかった。
うつぶせに倒れている彼に、鼓動が速くなる。強張って動かない四肢がもどかしい。
ほんの2mの距離が、海の向こうにの大陸ほどにも遠く感じた。
「痛ぅ…――イタ……ッ」
うめきながら悠矢が身体を起こす。あたしは半メートルも進めていなかった。
立ち上がる悠矢。少しずつ近づいてくる。
右足を少し引きずるような仕草を見せるけど、他は何ともなさそうだった。
「………?」
あたしたちの間にある距離、あたしには大洋ほどにも感じられるそれをあっさりと半分まで縮め、
彼は困ったような顔で立ち止まった。あたしの言葉を待つように。
途方に暮れた顔をしていたのだろう。
悠矢はそれを見て微笑んだ。優しいそれに、泣きそうになる。
「大丈夫?」
差し出された右手を取るべきかどうか、あたしは悩んだ。
その意味を考えるとあまり短慮には動けない気がしたから。
「…膝が痛い」
結局そう言って、むちゃくちゃに痛む膝を堪えて立ち上がった。
痛みを除けば、身体は正常に動く。鼓動も通常に近い速さに戻っていた。
「無理しないで」
「あたしは」
ふ、と後ろを向く。悠矢に背を向ける。今、顔を見せるのは、気まずい。
「あんたを顧みはしない」
少しだけ進む。あれだけ縮めたいと切望した悠矢との距離を、今度は自ら広げた。
「前を歩いてあたしを導いてくれる人も、あたしの横で支えてくれる人も必要じゃない」
のろのろと進めていた足が止まる。雨音が強くなる。
辺りを包む色は薄青さを残したまま、けれど明るくなっていた。
うるさい雨音に負けないよう、声を張り上げた。宣言するように。
「あんたが何を――あたしのために何をしようと、きっとそれを顧みたりはしない」
「…」
「だってあたしの道だから」
悠矢の右足を引きずった姿が目に浮かんだ。
けれどあたしはそれを無理やり頭から追い出した。
心がどう望んだところで、決心を揺るがすほどではない。
一度決めたことを翻すことの簡単さを、あたしは知っていた。だから心は変えない。
だから、きっと。悠矢の気持ちは無駄なのだろう。嬉しくない、そう言えば嘘になるとしても。
「それでいいんじゃないかな?」
「は?」
あまりに予想外の答えに、思わず振り返ってしまった。
毎度のことながら、決定的に真剣味と言うものに欠ける表情がこっちに向けられていた。
「僕は勝手に
後ろに居たって守れることはたった今証明したし、別に見返りが欲しい訳じゃないよ。」
「……」
「だって僕の道だし?」
意趣返しのつもりなのだろう。同じようなセリフをまんまと返されてしまった。
「バカだね、あんた」
「バカで結構」
まぁ、こういう軽口を叩ける相手ってのも貴重だろうし?
「だったら、好きにすれば?
あんたの気持ちも行動も、決定的にあたしに影響することはないよ」
「……言ったな」
真紅色の分厚いカーテン。それを通して聞こえる拍手。
私の感覚から行けば『喝采』に近いそれに満足して、私は感嘆の息を吐きながら大きく頷いた。
「
「膝、大丈夫ですかっ!?」
ソデに控えていた、部員たちが駆け寄って来る。
ドサクサに紛れて
「全然平気よ。強く打って痛いだけ。…匠、もうちょっと手加減してよ!」
「すんません、部長!勢いあまっちゃって」
心底悪いと思ってるのだろう。
拝み倒さんばかりに謝る匠を見ると怒る気も失せるというものだ。
それに私も引け目がある。
「いいよ。……私もセリフ忘れちゃったし。ごめんね」
「珍しいですね。部長がセリフ忘れるなんて」
「髪のゴム切れたのと、膝の痛みで真っ白になっちゃった」
「あぁ、あれはびっくりでしたね」
本当に。匠じゃないけど、私がセリフを忘れるなんて…悔しい。
うまく匠がフォロー入れてくれたから良かったものの
…あんなところで芝居が止まるのは勘弁して欲しいところ。
「部長〜。カーテンコールですよ〜!!ついでに匠も」
緞帳の切れ目に立った部員の1人が私と匠を呼ぶ。
「あ、はい。今行くわ」
「皐月部長、肩貸しましょうか?」
「結構よ」
「あ、冷たい。実は怒ってます?」
情けない顔の匠をさらっと無視。すたすた…とはさすがに歩けない。
あまりゆっくり相手をしている暇がないのは事実だけど…怒ってると言うよりは、八つ当たりに近い。
「…皐月部長。俺カッコ良かっただろ?」
そう、匠が話し掛けてきたのはカーテンコールの途中だった。
主役である私と準主役である彼は隣りあわせで立っている。
一度は無視した私だけど、しつこく何度も言われるのに業を煮やして答えてあげることにした。
「……まぁまぁ、ね」
「もしかしてもしかして惚れちゃったり?!」
…本気で言ってるのだったら、ある意味大した役者だと思う。
「甘いわね。舞台上では魔法がかかるのよ。
そして全ては人工物なの。
役をおりたら魔法は解けるし、人工物は滑稽に見えるものよ。」
お客さんに笑顔を向けたまま、小声で言う。
「ちぇ、キツイな〜。」
――そう。舞台の上に立つ『あたし』と、素の『私』とは別の人間。
『悠矢』と『匠』も。
だから、幕が下りて「お疲れ様」と笑う彼に動揺してしまったのは、気のせい。
そうでなければ、『美咲』と『皐月』のスイッチが上手く変わらなかったせいか、
あまりの熱演ぶりに『悠矢』と『匠』が混同されちゃっただけ。
そうに決まってる。
演出的蛇足。 |