the 18th story

□砂糖菓子□





 それは甘く、甘く、人を虜にする妙なる想い。そう、教えられてきた。



 今、二人の関係は壊れかけている。
 付き合い出して半年強、長いのか短いのかは分からない。幸せそうだったことは知っている。 そしてそれは既に過去形になりつつある……私は一目でそれを理解してしまった。

 心配になって訪ねて来たのが二時間程前、何をどう言っても止まらない嗚咽に、 打つ手が尽きたのは 既に三十分前のこと。
 以来、ひたすら背中を擦りつつハンカチを差し出し続けている。
 嗚咽ばかりで言葉にならない紗江と、かける言葉も尽きた私の間に会話は当然なく、 私としては非常に気まずい沈黙ばかりが部屋の中に蔓延していた。
 真っ赤に腫れた目元を擦り、しゃくりあげる紗江。 その左胸で小さな矢尻がぐらりと揺れた。揺れて今にも折れそうなこの状態が、紗江の心そのままだ。
 歯噛みする思いで見つめて、それでも事態を好転させる妙案は思い浮かばない。
「…はい」
 新しいハンカチを手渡し、涙で重みを増したハンカチを受け取る。溜息を飲み込みながらそれを脇に置く。 水気を含んだ布地が微かに音を立てた。
「………私が悪かったのかなぁ………」
 心底疲れ果て、朦朧とした声音が耳に届く。独り言よりも儚い、けれど切々とした響き。
 答えなど欲してはいないとばかりにそこだけで完結している、同時に何らかの反応を切望している。 反射的に 否定の言葉を紡がざるを得ないような、そんな呟き。
「そんなこと、ないよ」
 他の誰もが多かれ少なかれ躊躇と同情を含むであろう返答。セオリーに漏れず、私はそう答える。 ただし、きっぱりと。
 私には分かっている。彼女に悪い所はなかった。そして彼の方にも。
 諍い、争い、すれ違い、きっかけの積み重ね――二人の間にあるのはいずれも些細なもので、 そして互いに少しづつ好くないところはあったにせよ、決定的に悪くはなかった。
 敢えて形容するならば、性格の不一致による不和 とでもするのだろうか。 二人は共に決定的に悪くはなかったが、絶望的に異なってしまったのだ。 互いに許容できる範囲を逸脱してしまった。
 初めはそんなことはなかったのに。どこから変わってしまったのだろう。 ぴったりと寄り添えたはずの二人はどこにいってしまったのだろう。
 ――それは多分、とても口惜しいことだと言うのに。
「でも、」
「紗江、紗江は悪くないよ」
 だから自分を責めるようなこと、言わないで。
 ようやく視線を向けてくれた紗江に少しだけ安心しながら、私は告げる。
 左胸で揺れ動き続けていた矢尻が動きを緩めた気がした。濡れた瞳がしばし私を捉え、ふっと逸らされた。
「……そうかな」
 声に力が戻る。入り込んだ西日の作り出す陰で、顔は見えなかった。いつの間にか、目元を拭う動作はなくなっていた。


 ――ただ、
 それは根拠のない、だから肯定するに足る事実ではない、けれど否定しきれる程の材料もまた ない。
 ただの勘と言うのか、或いは予感と言うのか。
 ただ――だめだ。
 そう、思った。


 直後。音を立てず抜け落ちた矢がその危惧を確定的にした。
 二人の間を修復するのは――。









 昼下がりの喫茶店は全く人がいなくて、私は少しばかり愚痴モードに入っていた。
「ま、気にすることないって」
 非常にどうでもよさ気な返答。慰め未満の言葉をもらっても少しも気は晴れないんだけど。
 恨みがましく見れば、長い髪を二つに分けて編んだ少女が微笑んでいた。 幼さを感じる丸みを帯びた輪郭に不釣合いな、人の悪い笑み。
 見たこともない顔だけど、実は、彼女は私の同僚だったりする。 最後に会った時は、確か長身のキャリアウーマン風な外見をしていた。 最もそれは私も同様で、前回会った時には……確か、世話好きな中年女性だったはずだ。 老婆と言って良いほどの年齢をしていた時もあったし、男性だったこともあった。
「どうして、なんて考えてもしょーがない。人間ってのはたいてー変わってんだからさ」
 私は上手く答えられずに手元のコーヒーに視線を落とす。立ち上る湯気が微かな風でゆるゆると動く。
 想いの在り様は、どうして不安定なんだろうか。絶え間なく変化して、変化を続けた末には壊れてしまう。
 結局、あの後、紗江はあやうく傷害事件まで起こすところだった。愛情は憎しみになり、爆発した。 紗江を宥めるのは大仕事だった。まだしばらくは目を離せそうにない。
 やっぱり…私はヘタ、なんだろうか。
 そう問うと、いかにも良い所のお嬢様っぽい見た目の同僚は 大爆笑した。笑い声は、けたけた、だ。
 素晴らしく相談の甲斐がない上、ちょっと怖い。
「あたしらを何だと思ってるわけ?」
「………天使」
 ちょっぴりアイデンティティに疑問を持たざるを得ない私。こんな簡単な疑問にも自信を持てない。
 もっとも同僚の方は気にしなかった。
「そ。それも縁結び専門」

「そうなんだけど」 「だぁかぁらぁ、間違うはずないんだってばさ。  あたしらには縁が見える、一番適切で求められている相手との間にある糸を見間違えたりしない」
 そう、そういう二人の間にある縁を強固にする。獲物は一対の矢。二人は出会い、恋をして、幸せになる。 その様を一定時間近くで見守る。私たちは、そんな仕事を長い間続けている。
 縁の有無を間違うことは有り得ない。それほどにはっきりした兆候なのだから。
「最適な相手とダメになるってのはー、つまり変わりに変わった最適が元のと正反対になるからってヤツでさ。  せーっかくのパートナーなのに、訳わかんない、つーかそこが人間の人間たる所以?」
 言いながらコーヒー(ミルクなし砂糖なし)を呷る。ぷはーとか言うのは止めて欲しい。
「………どうでもいいけど、凄い違和感」
「外見とのギャップなんて、あたしら的にはどーでもいーじゃんさ」
 そうなんだけど、ね。
 冷え始めたコーヒーのカップを玩ぶように揺すって私は思う。
「あんたって煮え切らないねー」
 まぁそこが、と言いかけた同僚の言葉が止まる。
 窓の外を凝視している。視線を追っていく内、思わず声があがった。

 大通りを挟んだ向こう側、信号待ちをしている女性。近くに、『最適』がいる。

「やっぱ分かってるじゃん」
 にまり、と唇を持ち上げた同僚が立ち上がる。
「んじゃ、お仕事、お仕事ー」
「元気だね」
「あったりまえ、じゃねー」
「………いつかまた、どこかで」

 ドアに取り付けられた鈴が涼やかに鳴って、同僚は姿を消した。
 大通りを行きかう人の中に、長い髪の少女はいない。



「変わっていく最適、か」
 甘く、甘く、人を虜にする妙なる想いはどこに行くのだろう。 想うことが、或いは想われることが心地よいから人は恋をしたいと願うのではないのだろうか。
 紗江の胸にあった、優しい温かさは………。

 くるくる、カップの中でコーヒーが回る。ミルクなし、角砂糖三つ。

 溶けて消えた砂糖は、舌に強い甘みと、同じくらい強い苦味を残した。