the 7th story
夜闇を切り裂いて、電子音が微かに響いた。
「……」
ゆっくりと浮上する意識が、電子音を『音楽』だと認識するまでにしばしの時間を要した。
それは、本能が認識を拒んでいたせいかもしれない。
この曲は、たった1つの番号のためにだけ設定されている。
そして、これが流れる状況は…とても歓迎できるものではない。
曲そのものは最近ハヤっている、女性グループのロック調のもの。
音楽番組でたまたま聞いて、その陽気さとノリの良さが気に入ったものだった。
好きな音楽が聞こえてくるなら、少しくらいの気休めにはなるかと思ったが、甘い考えだったようだ。
ただ、音楽ごと嫌いになるだけで。
影の濃淡、輪郭だけの世界で、沙里は目を見開いた。意図せず、身体は強張る。
耳を塞ごうと持ち上げた両腕は、途中で力を失った。ばたり、とシーツに落ちる。
冷えたシーツが、剥き出しの腕には冷たい。
静か過ぎる空間に、電子音。
自分の中にこだまする、心臓の音。
それらが相まって、神経を掻き毟りたくなるような騒音になる。
そのままの格好で微動だにせず、待つ。けれど、それが鳴り止む気配は一向にない。
瞼が痙攣した。闇を凝視するあまり、瞬きも忘れていたのだ。
意味もなく溢れそうになる涙は、乾いた瞳がもよおす生体反応…それだけなのだろうか。
設定された曲は一周して、再び頭が流れ出す。
噛み締めた唇に、ぶつ、と鈍い痛みが走った。生暖かい血がそこから肌を流れる感触は、ひどく不快なものだ。
けれど、その血を拭うこともできない。
さらに一周、もう1度はじめが流れ出す。
五感が極限にまで研ぎ澄まされる。
聞きたくもない音、見たくもない闇、感じたくもない感触、僅かに香る血のにおいと鉄くさい味。
そんなもので身体の内側が満たされて、吐きそうになった。
――軽快な音楽が、唐突に途切れた。後に残るのは、はじめから何も存在しないかのような静寂。
大きな息と共に、張り詰めた力が抜けていく。
「…ッ……は、ぁ」
まだ震える右腕で唇を拭った。思ったよりも出血はない。
そのまま腕を頭上まで伸ばした。指先に触れた堅い物体を引き寄せる。
折畳式の携帯電話。
ぼんやりと光を発するサブディスプレイが、不在着信を知らせていた。
限定された空間だけを照らすその光を、悩むように見つめてから、携帯電話を裏返す。
光が漏れないようにシーツに押し付けて、上から手近にあったクッションを乗せた。
画面を開いて、着信の相手を確かめる気にはとてもならなかった。
どのみち、この音楽が導く相手は1人だけだ。…誰、と知っている訳ではないが。
いつからか、不定期に携帯を鳴らす、『誰か』。招かれざる深夜の客。
はじめは1月に一度ほどの頻度だったが、段々増えている。一昨日かかってきたばかりだから、間隔は2日しかない。
着信の時間も、長く、なっている。何かを暗示するようなそれに、感じる恐怖感は募るばかりだ。
明日、朝一に携帯ショップに行こうと決心する。
これまでの経験から、番号を変えたところで無意味だということは分かりきっているが、
無駄なこと、と割り切ることはできなかった。なにもせずにいるのは、不安でたまらない。
それに、新しい携帯で気分を変えるのも良い。
眠気などとうに飛んでいたが、沙里は無理矢理に目を閉じた。
いつ訪れるとも知れない眠りをひたすら待つ。それは、ひどく心細い作業だった。
「…羊が一匹。羊が二匹。」
今まで羊を数えて眠れたことなどなかったが、
もこもこの羊で頭を一杯にしていれば多少はまぎれるかもしれない
――彼女がそう思ったのも無理ないことだろう。眠れないプレッシャーというのは相当のものだ。
呟きがことりことり、と闇に落ちていく。
「…はちじゅ、う……な……」
単調な呟きは、幸運なことに自己催眠に変わったらしい。
戻ってきた眠気に身を任せながら、それでも惰性で羊を数え続ける沙里。
規則正しい寝息に、呟きそのものが埋没していく。
完全に沙里の声が途切れようとした、その瞬間――。
―――りん
鈴の音に似た音が、無防備な沙里の脳を直撃した。
多少くぐもってはいたが、確かに聞き覚えのあるそれにつられ、
半ば反射的に沙里は音源に手を伸ばした。…先ほどクッションの下に押し込んだ携帯電話に。
そして、再び起こされたことに憤りを感じながら画面を開いた。
途端、淡い白色光が沙里の目を射した。いらいらと瞳を細め、待つことしばし。
ようやくまともに光を受け付けるようになった目が、
画面左上で点滅する紙飛行機のモチーフを捉える。メール受信の表示。
不機嫌そのものの表情を自覚しつつ、キーを押す。
eメールではない、番号で送られてくる…所謂、スカイメールだ。
(誰よ…)
この時間にメールを寄越してくるような知り合いはあまりいない。
悪戯メールだったら即刻消去、友だちだったら明日の朝イチで文句言ってやる、
と意気込んで送信先を表示させる。
その瞬間。
操作していた右手親指が−−いや、全身が凍りついた。
一呼吸おいて、慌てて着信履歴を調べた。
まさか、もしかして。そんな希望に縋るように。
(同じ、番号…)
彼女にとっても、さすがにこの展開は予想外だった。時折ある着信よりも、もっと直接的なコンタクト。
無意識の内に、ないだろうとたかを括っていた状況だった。
(見ちゃ、だめ!)
なにか、今までよりもずっと切羽詰ったなにか、が迫っている…そう感じた。
頭の中で煩いほどに鳴る警鐘。これを無視して、良いはずがないことは分かっていた。
――それでも、身体は勝手に動く。
嫌だ、と喚く感情を無視して。途方に暮れながらも、震える指がキーを押し、見開いた瞳が文字を追おうとする。
暗闇の中、ベッドの上、ディスプレイが放つ薄ら明りを覆うように沙里の身体が屈みこむ。
長い髪が顔の両脇をカーテンのように遮った。周りの景色が見えない恐怖と、見ないで済む安堵
…どちらが大きいのか彼女自身にも分からなかった。どちらにせよ、彼女はその髪を払うことすらできない。
細かく震動する細い肩、かちかちと音を立てる歯。
ぴ、と軽い音を立てて新着受信メッセージが映し出される。
『いつでもいる』
簡単で、それだけに意味を取りかねるメッセージ。単純に取れば、ストーカーのそれとも取れるかもしれない。
沙里はそう、自分を納得させようとした。決して気分が良い訳ではないが、その方がどんなにもマシだと。
しかし、直感はそれを容易に裏切る。背筋を這い回る悪寒が、そんなモノではないと明確に告げる。
白くなるまで握り締めた右手、そこにあった堅い感触が突然、消えた。
(い、や…ぁ)
次いで足元に触れていた冷たいシーツの感触が、そしてやわらかな肌触りのパジャマの感触が。
混乱をきたした頭が、それでも事態を理解しようと携帯電話を凝視する――いや、凝視しようとする。
「!!」
けれど、それはさらに混乱を加速させただけだった。
なぜなら、確かに存在していた携帯電話が消えたからだ。
募る焦燥。どう見ても携帯電話が見つからない。見渡した先に、自分の部屋そのものが…ない。
それどころか、自分の右手も腕も身体も。
次に消えたのは、自分の部屋のにおい。生活臭にも個人差があるものだ。
自分のそれが満ちた場所では、無条件に安心できる。その消失は、沙里を不安の淵へ叩き込んだ。
最後に、肋骨の内側を叩くはずの心臓の鼓動。
それすら感じられなくなったところで、ようやく彼女は悲鳴を挙げた。
「 」
けれど響くはずの声はなく、空気はこゆるぎもしない。
五感全てが塗りつぶされた。あるはずのものは全て失われ、代わりにないはずのものが現れる。
沙里は今、傍らの存在を感じていた。
触覚でも視覚でもない、第6感が告げるその存在。
まさしく、皮膚一枚を隔てたところにたたずむ、影と闇の『容れもの』。
(……)
(お願い、助けて…許して!)
(…………)
(た、すけてゆるして)
ひたすらに無言なそれに、哀願を繰り返し、許しを請うた。
くすり、とそれが笑う気配がそのまま戦慄となって伝わる。
そうして、聞こえないはずの声が届いた。
『いつでもいる』
「ッ――……や、っ!!」
がば、と音を立てて沙里は起き上がった。
肺が空気を求めて喘いだ。呼吸を忘れていたかのようだった。
恐怖の表情を貼り付けたまま恐る恐る見回すと、そこはなんの変哲もない、自分の部屋。
目の前まで持ち上げた右手は、冷え切っていたけれど疑いようもなくそこに在った。
唇には、少しだけ血がこびりついていた。自分の歯で傷つけたらしかった。
探り当てた携帯電話は、電源が切れていた。着信も受信メールもあるはずがない。
最近、怪しげな着信の対策のために、夜間は意図的に電源を切っていたのだった。
(・・・・夢?)
ようやくそれに思い至って、笑い出したい衝動に駆られる。
いくらなんでも、怖がりすぎだ。
電源が入っていない携帯電話など、オブジェほどの意味もないのに。
ようやく落ち着いた息を、笑いで震わせながら沙里は電源ボタンを押した。
キャラクターと『welcome!』という文字が起動を知らせる。
沙里自身がこの状態にしなければ、携帯電話などプラスチックの塊に過ぎないのに。
軽い音をたてて画面を閉じ、再び眠るために布団を引き上げた。この時期の夜気はまだ冷たい。
あくびを1つ。落ち着きの良い場所を探して2・3度寝返りを打つ。それからもう1つあくび。
苦もなく2度寝に突入しようとした沙里の耳に。
――夜闇を切り裂いて、電子音が微かに響いた。
傍らに立つ、影と闇からのメッセージが。